「「私」のための現代思想」, 高田明典

 

私たちが直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの「問題」は異なっているはずです。この本は、それぞれの「私」が直面している問題を、自分で解きほぐす手助けとなることを目指しています。直面している問題を解きほぐして解決するためには、道具が必要です。本書では、その道具として「思考」を用います。これにはいろいろなものがありますが、本書はその中から特に「現代思想」に分類される考え方や思考の枠組みを使うことにします。

 

【印象的な表現や文章】 

「人を苦しめている原因は直接的には抑圧ですが、その解決策は、大きく分けて二つしかありません。ひとつは『抑圧をなくすこと・自由を回復すること』であり、もうひとつは『魂をなくすこと』です。」(P.6)

 

「人は『正しくあろう』とする存在です。『自分の考え方が、少なくとも自分にとっては正しいものである』から、人はその考えを行動に移すことができます。正しくあろうとすることは、人間の特質であるとさえ言えます。ただしこの『正しさ』は、決して道徳的な意味でも、倫理的な意味でもありません。そのような『社会が推奨する正しさ』ということではなく、『自分の内部での正しさ』ということです。」(P.21)

 

「苦しまないための唯一の方策は、無意識の中に沈みこむことです。この誘惑には多くの人々が何らかの形で屈して行きます。」(P.28)

 

「何かを分類するための基準は、実は無限に存在します。しかし私たちは、それらのうちから恣意的(勝手)に、ある種の『基準』のみを選び出し、それによって『分類』を行います。そして、『正解とされる分類』というのは、それが『社会において一般的に用いられる基準である』、もしくは『社会において重要度が高いとされる基準である』ということによって裏打ちされているだけです。つまり、私たちが何かを学ぶということは、社会において重要されている分類基準を自分のものとするということを意味しています。」(P.40)

 

「山登りの途中で『疲れ』を感じたとしましょう。そのとき、『疲れ』だけでは『辛さ』は発生しないということに注意が必要です。『疲れ』た状態から『逃れられない』と思ったときに初めて、人は『辛さ』を感じます。」(P.101)

 

「今という時代の不幸は、本来、『今の社会が必要としている人たち』が生きにくいという点にあります。『水は低きに流れる』のたとえどおり、『日常に埋没して生きる』ことが今の生き方の趨勢であると言えます。なぜなら、そのような生き方のほうが圧倒的に楽だからです。」(P.114)

 

「話を戻すと、この<世界>を『生きにくい』と考えている人たち、この<世界>において『死と向き合っている』人たちだけが、私たちの<世界>における『生』を生き生きとしたものに変えることができます。」(P.115)

 

「私たちは他者の身体を『触覚によって知覚しよう』として、触れます。そうすることによって一瞬は<他者>を知覚しえたかのように思うのですが、それが誤解であることにすぐ気づきます。それでも、私たちは何度も何度もなでます。しかし、そのとき私たちは、『愛撫』や『なでること』の感触を楽しんでいるわけではありません。『触れること』『なでること』『愛撫すること』によって、知覚できそうな何かを求めて、けれども得られないので、それを何度も繰り返すのです。」(P.171)

 

「・・・それらの『役割』は決して固定的に割り振られているものではなく、その場に集まった人間どうしの『関係』によって発生するものです。さらに、そのような『役割』は、鍋の最初から発生しているものではなく、最初はゆるやかな関係が発生し、その後『場の雰囲気』によって次第に固定化していきます。そのような状況のことを、ゴフマンは『相互関係秩序』と呼びました。」(P.176)

 

「私たちは、『自分が正しいと思えない場所』で生きていくことはできません。そこでどのように装ったとしても、不思議なことにそれは必ず察知されますし、また、そのような場所で不承不承生きていくこと自体、とても辛いことです。」(P.180)

 

「一方で、『しかたがない』『自分が我慢すればよい』などと考え、(つまり『外部における闘い』を回避し、)さらに『内部での闘い』までも回避するとき、私たちはとても危険な場所に立つことになります。なぜなら、『正しくない居場所』で、不承不承に、自分の魂を小さくすることによって生きていくしかなくなるからです。」(P.204)

 

「人は、自分が『してはいけないと考えたこと』を実行することができません。それは当然のことです。『してもいい』、もしくは、少なくとも『しかたがない』と考えたから、その行為を実行したわけです(盗人の例がそうでした)。このとき『しかたがない』という論理によって、その『本来(社会の価値においては)行ってはいけないとされる行動』が、自分の内部では正当化されたということになります。」(P.209)

 

「『真の正しさ』ではなく、『より正しい』方向へと世界を変化させていくというのが、『生命体』というシステム全体のもつ方向性です。」(P.212)

 

「その一方で私たちは、自らの『意思の力』で選択することもなく、無為にエネルギーの大きな振動に共振し、それを自分の振動としていたりすることもあります。それはたとえば、『みんながよいと言っている音楽』をよい音楽だと感じ、『みんなが正しいという意見』を正しい意見とだと感じるという状態です。この世界で『楽しく生きる』ことはたしかに大事なことですが、それは『流されて生きる』ことではないはずです。」(P.221)

 

「私たちは、『呼びかけられる』ことによって存在を引き受けられるわけではありません。『私』が、<他者>に『呼びかける』ことによって、その<他者>において『<私>の存在の引き受け』が発生します。もちろんそのとき私たちは、顔を見せなくてはなりませんし、名乗らなくてはなりません。それは<<私>>を引き受けてもらうためです。顔を見せず、匿名で呼びかけても、その存在は引き受けてもらえません。」(P.255)